下町労働運動史15 大正時代7
下町ユニオンニュース 2012年6月号より
大正時代の下町労働史 その7
小畑 精武
バスが誕生 車掌の労働と賃金
大正時代に女性の社会進出は大きく進みます。米騒動の主役は女性。近代産業の最先端をいく紡績業の主役ももちろん女性でした。城東電車の車掌にも女性がいた話を前回しましたが、新しい乗り物バスの車掌が大正時代に誕生しています。
バスの営業運転は一九〇三年(明治三六年)に広島で始まったといわれてます。しかし乗合馬車業者の反対で長続きしませんでした。でも同じ年の一一月に営業運転が京都で始まりました。
東京のバスの先陣は京王電鉄でした。一九一三年(大正二年)に笹塚―調布間の電車開通に伴い、未開通部分の新宿―笹塚、調布―府中にバスが代行運転されたのです。これも電車が新宿に、府中に延伸されることにより、廃止となります。
東京市内では一九一九年(大正八年)三月一日に新橋―上野間で東京市街自動車が営業を始め、翌年から女性車掌が採用されました。最初は少年車掌が乗務したそうですが、料金をネコババするので純真な女性車掌の採用に至ったそうです。
その後、一九二三年の関東大震災後によって市電は壊滅状態となり、市営乗合自動車事業が翌年の一九二四年一月から始まります。区間は巣鴨―東京、中渋谷―東京の二路線に一一人乗り四四両が走りましたが、そこには女性車掌は乗っていませんでした。しかし一〇月から女性車掌が採用されることになります。受験者は二五八人、合格者一七七人、うち既婚者は三一人いました。大変人気があったといえるでしょう。
一番長いバス路線は洲崎ー永楽町ー護国寺で約一〇㎞。当時のバスは小さくドアはなし、吹きさらしステップ(写真)に立ち続ける過酷な労働でした。市バスの制服は三越に注文し、フランス人のデザインによる紺サージのソフトカラーで、高級なイメージのバスにふさわしいものでした。ちょうど少し前のスチュワーデスのようだったそうです。
高給でも毎日一〇時間の労働
しかし、労働は過酷でしたが賃金は当時としてはかなり高かったようです。一九二〇年の一八歳初任給が三五円、一九二四年には五二円から七四円(平均六三円)でした。当時の大卒サラーリンマンや教員の平均初任給四、五〇円よりも多いのには驚きです。しかし、これには裏がありました。車掌の賃金は残業代も含めての賃金だったのです。
一九二五年(大正一四年)の朝日新聞「町の娘」に載った二一歳のバス車掌の話では、
「何か稽古をしたいと願っていますが、なにしろ毎日平均十時間の労働で、疲れ切って帰りますし、六日に一度の休日も、お洗濯やら何かと雑事に暮れてしまいますので、思うように任せず残念です」と語っています。
ちなみに市バスの運賃は一九二四年(大正一三年)には一〇銭でした。なんと、バス車掌の賃金六三円は運賃の六三〇倍。今はバス代が二〇〇円なのでその六三〇倍は一二万六千円です。賃金が安く、バス代が高かったといえます。しかし、格差は大きかった!
当時の他の職種の賃金を比べてみよう。
バス車掌 月給 六三円(一二・六万円)
総理大臣 月給 一〇〇〇円(二百万円)
国会議員 月給換算二五〇円(五十万円)
都知事 月給換算五〇〇円(百万円)
巡査 月給 四五円(九万円)
小学校教員 月給 四~五五円(十一万円)
国家公務員 月給 七〇円(十四万円)
銀行員 月給 四五~五〇円(九~一〇万円)
大工 日給 二円九二銭(月二二日稼働で換算すると六四円、十二万千円)
総理大臣、国会議員、都知事などがずば抜けて高い!今も高過ぎるといわれている!
【参考】「バス車掌の時代」(現代書館、一九九二年)
「値段の風俗史 上・下」(朝日文庫、一九八七年)