下町労働運動史6 明治時代5 労働者保護・工場法への道
下町ユニオンニュース 2011年8-9月合併号より
明治時代の下町労働史 その5
労働者保護・工場法への道
小畑精武
先日「東京の交通100年博」を観に行ってきました。黄色い車体の実物の都電6086号や関東大震災後に導入された最初のフォード型市バスはなかなかの迫力、必見です(9月10日まで、江戸東京博物館)。
しかし、前号で期待を述べた100年前のストライキの紹介はどこにもみられませんでした。こうした博覧会の多くが「物」を見せることに傾き、その物を動かした労働者や労働についてはほとんど語られないのは、資本主義の人間軽視にあるような気がしてなりません。
明治末期の下町はすでに工場が建ち始め、南葛飾郡吾妻村(現墨田区鐘ヶ淵)には、その地名を会社名にした大手の鐘淵紡績(現カネボウ)がありました。当時の最大の紡績工場の集積地は大阪でしたが、現江東区の小名木川沿いにも富士紡績や堅川沿いの東洋モスリンなどいくつかの紡績工場がありました。東洋モスリンは大正期には名著「女工哀史」を書いた細井和喜蔵が働いていました。さらに昭和の初期(一九三〇年)には市街戦となった大量解雇反対の東洋モスリン争議が展開されます。
明治末期東洋モスリンでは1909(明治42年)1月11日から13日にかけて争議が勃発しました。男女ほぼ全員800人の労働者が賃上げを要求、会社は男15人、女18人を解雇しました。結果は会社が職工間の評判が悪く他社からの「引き抜き」を担当していた機織部長を罷免し解決したそうです。
地方で女工を募集するうえに、近隣工場から「引き抜き」をしなければならないほど、当時は人手不足だったようです。とくに日露戦争は富士紡績に大きな需要をもたらしました。地方での募集勧誘にあたっては、都会生活、職工生活の快楽のみを説明し、その辛さ苦しさについてはふれないのです。人手不足は裏返せばやめる労働者が大変多かったことにもよります。なぜやめるのか?それは午前6時~午後6時(東京モスリン)、1日12時間(小名木川綿布)の長時間に加えて夜業・徹夜が多く労働条件が過酷だったからです。
政府もこうした劣悪な労働条件を無視することができず、労働実態調査を1901年(明治34年)に行い、「職工事情」(1902年出版)としてまとめています。
そこに出てくる甲という会社では1900年(明治33年)の1年間に、前年繰越し労働者数1246人のうち、正当解雇815人、逃走除名828人、事故請願394人、病気帰休者118人、死亡7人で、雇い入れ総数が1538人、再勤務202人、満期継続242人で12月末現在数はわずか622人に減っています。また児童労働も、東京紡績では14歳以下が15%とかなりの比率を占めていました。
こうした大量の退職者を生み出す劣悪な工場労働の実態から、政府は、12歳未満の労働の禁止、女子および15歳未満の最長就業時間を13時間、深夜業の禁止、労災扶助制度などを内容とするはじめての労働者保護法となる「工場法」を1911年(明治44年)に公布しました。しかし、零細企業の多い織物業界の反対が強くて、施行は1916年と5年間も延期されたのです。