下町労働運動史5 明治時代4 地域ユニオンの元祖・深川の沖仲士
下町ユニオンニュース 2011年7月号より
明治時代の下町労働史 その4
地域ユニオンの元祖・深川の沖仲士
小畑精武
七月一四日から江戸東京博物館で「東京の交通一〇〇年博」が始まります。ストライキで幕が開いた東京市電(都営交通)が一〇〇歳。「一〇〇年博」に「市電スト」が出てくるか?気をつけて見てみたいものです。
貧民の街 本所、深川
明治時代の有名なルポ横山源之助の「日本の下層社会」(一八九八年)の冒頭「東京貧民の状態、都会の半面」に本所、深川が描かれています。
「東京一五区、戸数二九万八千、現在人口一三六万余・・多数は生活に如意ならざる下層の階級に属す。細民(貧民)は東京市中いずれの区にも住み、・・細民の最も多く住居する地を挙ぐれば・・本所・深川の両区なるべし。・・職人および人足・日傭取の一般労働者より成り立ち、・・・日傭稼・人足・車夫等、下等労働者は大略本所・深川の両区より供給せらる。」
しかし、より劣悪な環境の「貧民街(スラム)」は四谷鮫ケ橋、下谷万年町、芝新網で、東京の三大貧窟といわれました。
四畳か六畳ひと間に五、六人
「日本の下層社会」は「九尺二間の陋屋(狭い家)、広きは六畳、大抵四畳に、夫婦・子供、同居者を加えて五、六人の人数住めり、・・僅かに四畳六畳の間に二、三の家庭を含む。婆あり、血気盛りの若者あり、三十を出でたる女あり、寄留者おおきはけだし貧民窟の一現象なり。」と貧民街の居住環境を描いてます。細民の居住環境も五十歩百歩であまり変わらなかったようです。今とはずいぶん違うようですが、ほんとうでしょうか?今でも路上生活を強いられている「現代の貧困」があり、一〇〇年たってもまだ資本主義が生み出す貧困は克服されていないと思います。
賃金交渉をした深川の米の沖仲士組合
石川島の造船所、深川のセメントや東京紡績、隅田村には鐘ヶ淵紡績など工場も出来始めた明治ですが、「日本の下層社会」が発刊された一八九八年ごろ、賃金は職工で一日三〇銭、人足で二七、八銭とあります。深川には運送に携わる労働者が多く、船からお米を降ろす沖仲士の賃金は三〇斗以上で三〇銭、六〇斗以上では五〇銭という賃金表をつくることもしていました。
「深川仲士人足の間に強固なる労働組合あり、三業組合と名づく。賃金の競争、および他の土地より入り来る仕事師の競争を防ぐを目的とし、人足請負頭と連合し、深川に回送する米穀の運搬に従う沖仲人足ことごとくこれに加わり、当時の組合員の総数一千余人に出づ。組合は、各廻米問屋と交渉して一定の賃金割を定め、米商会所ならびに各廻米問屋に通して規定を破ることなからしむ。賃金表は左の如し。組合の組織極めて堅く、もし破るものあらば厳重の制裁を加え、仲間外れとなして交際を絶ち、その成績はなはだよし。」(「日本の下層社会」)
さらに、物価が高騰した一八九六年には賃上げを廻米問屋に要求したが話はつかず、一致して「同盟休業」に入りかけ、仲裁が入っておさまったそうです。当時のお米は今以上に必需品!もし、二、三日でもストライキに入れば米小売市場・庶民生活への影響は計り知れないものがあっただろうと、横山源之助は書いてます。
深川の沖仲士の組合のDNA(地域職種ユニオン)を下町ビルメンユニオンやケアワーカーユニオンが引き継ぐことができれば、すばらしいことですね。
(当時の砂町はスイカの産地だった)