下町労働運動史4 明治時代3 東京市電ストライキ

下町ユニオンニュース 2011年6月号より
明治時代の下町労働史 その3
東京市電ストライキ100周年
小畑精武
明治時代の隅田川の東側は本所や深川を除いて工場はほとんどなく、まだまだ田んぼが多かったのです。市内交通は人力車、鉄道馬車から、明治三六年(一九〇三年)には市内電車となりましたが、隅田川を超える市内電車はせいぜい厩橋、本所、深川まででした。ちなみに両国始発の総武線の開通は明治二七年(一八九四年)です。それでも隅田川沿いには工場が建ち始め、石川島造船、浅野セメント、後の鐘紡などの工場が建設されていきました。
政府の富国強兵政策のもと、日清戦争(一八九四~九五年)から日露戦争(一九〇四年~〇五年)と続き、これに対して反戦の声もあがり、一九〇六年一月には日本社会党が結成されました。三月には社会党が主導する市電値上げ反対運動が盛り上がり、日比谷公園で計画された市民大会(今も日比谷公園は労働者、市民が集う場所ですね)は暴動にまで発展し、電車の焼き打ちまで起こりました。本所でも夜まで暴動が続いたそうです。東京府は値上げ申請を却下しました。
そのころ全国では足尾銅山、別子銅山、三菱長崎造船所などでストが勃発していきました。石川島造船所(佃島)の労働者は一九〇六年二月に一般職工の日給(三〇~八八銭)が職工長(一円二〇~三〇銭)に比べて低いと賃上げを要求。警察は介入し集会を解散させました。労働者は深川公園に移ったものの、今度は深川署が介入し、会社も強行姿勢を貫き、ストライキは敗北に終わりました。
こうした民衆の運動が高揚していくなか、一九一〇年には明治天皇暗殺を企んだとして多くの社会主義者・無政府主義者たちが検挙され、幸徳秋水たち一二名が死刑に処された大逆事件がおこりました。
明治の最期をかざる闘いは明治四四年(一九一一年)の大晦日から翌正月二日にかけての東京市電運転手、車掌六〇〇〇人のストライキです。値上げ問題をきっかけに市内電車は公共性が議論され市営となり、それに伴う東京鉄道解散に対する配当金をめぐって大ストライキに入ったのです。重役には四万九千円、上級職員三九二円に対して一般の運転手、車掌にはたったの四六円しか分配されなかったからです。わずかな分配金に労働者の不満が爆発!三田車庫からストライキは上野、青山、浅草と広がっていきました。本所車庫は私服刑事が配置され立ち遅れました。しかし当局との問答の末、ストに突入。大晦日、新年元旦と東京市電は全線ストップ。大事件です。二日に市が収拾に乗り出し、重役の配当金をはぎ取って労働者に回すこととなり、当初の二、三倍の配当金を勝ち取りました。
ストは勝利をもたらしましたが、本所の一〇人を含む六四人が治安警察法違反によって検挙され、片山潜も逮捕されたのです。
東京市電ストに誘発され、明治四五年(一九一二年)は全国でストライキが起こりました。この年七月明治から大正に改元され、八月新しい時代の労働組合「友愛会」が結成されます。下町も大正期には工場化がすすみ、労働組合の活動が活発になっていきます。