下町労働史(98)

下町ユニオンニュース 2020年3月号より
 小 畑 精 武
戦時下のたたかいと抵抗
 一九四一年一二月八日日中戦争に続いて太平洋戦争が真珠湾爆撃によりはじまりました。
すでに、「出版印刷労働者の記録」(本誌九三号)で紹介しましたが、“出版工クラブの運動は戦時下でもなくなっていなかった”のです。クラブは海の家の開設、俳句の会活動と組織づくりをすすめ、特高の目をそらしていました。それでも四〇年八月には特高立会いの下に偽装解散式を開かざるを得ませんでした。
 しかし解散後も旅行会、料理講習会、ハイキングなど柔軟に活動し、印刷会社の経営管理も四一年にはすすめています。それでも権力の弾圧は強まり四三年には中心メンバーが次々と検挙されて横浜刑務所に入れられました。
争議行為は減らなかった
 政府統計によると四一年から四四年にかけて一三〇三件の争議に五三四四三名が参加しています。しかも争議行為をともなう争議への参加率が高まっていることは見逃せません。
 主な争議として、一九四二年の海軍管理工場の磯貝鉄工所の闘争、日立製作所亀有工場(足立区)のサボタージュ戦術と三割生産減、日立亀戸工場労働者の「待遇改善」の要求闘争、川崎重工業争議があげられています。日立亀戸工場(江東区)の跡地は現在大きな集会にも使える亀戸中央公園になっています。
日立工場に女性も徴用202003
日立工場に女性も徴用
日立亀戸工場の争議
 第二電機課塗装係一二名と巻線係一名が待遇改善を要求。誠意ない会社の態度に憤慨し、対抗手段として下に製品の手抜き・不良品づくりすすめた争議です。
 会社の態度に同じ職場の工員が賛同し、四二年一〇月二六日の産報総懇談会で電圧課伍長が賃上げを提案、一一月一三日昼食時に塗装係全員が集まって以下五項目要求を決定。
 ①請負単価の引き上げ(5割以上)
 ②賞与不平等の廃止
 ➂昇給の不平等廃止
 ④永年勤続者の優遇
 ⑤会社は生活保証をすべきこと
 組長の出席を求めて会社側に提出し要求を認めない場合には作業の手抜きをする強硬な態度を表明します。しかし会社は「永年勤続者のみ優遇」を考慮する姿勢で要求を無視します。労働者は手抜きの実行へ、さらに他の協力者も出てきます。手抜きを十一月一三日ごろから実行に入りました。
 亀戸警察の介入が始まります。一一月二六日までに事態を察知した警察は首謀者たち六名の半数を検束、他は不検束で厳重取り調べを行い戦時下の生産阻害の不心得を厳重にさとします。労働者は改心して、要求事項を撤回して一二月二一日に“解決”となりました。「左翼分子の介在があった」として塗装工と巻線工の二人を検挙、共産主義者の指導としました。
広がる戦時下の自然発生的抵抗
 ハッキリと共産主義者や社会主義者が指導したといえる争議はほとんど一九四二年にはなくなっていったといえるでしょう。しかし、以下のような「自然発生的抵抗」の現われは戦時下の労働者の厳しい職場環境・労働条件の存在をあげることができるでしょう。
①遅刻早退者の増加、②欠勤者の激増、➂逃走者の続出(徴用工員が多い)、④怠業的傾向、⑤不良化、⑥労務の拙劣さに基づく集団暴行事件の頻発があげられています。
 戦争が拡大し、下町の工場も軍需工場に転換されていきます。四二年一一月に本土へのはじめての空襲が荒川区を襲います。戦局が不利になり生活が悪化し、さらに家を焼かれてどうして会社に出勤できるでしょうか。欠勤者は増加し一四%におよび、敗戦前一年間に造船業の欠勤率は二四%から五二%、飛行機工業では二一%から五一%へと急激に増加していきました。これは、重労働と栄養失調による脚気、疲労などの栄養不足が原因でした。
 さらに、中国人や朝鮮人の連行が増加、同時に炭坑や工場からの「逃亡」という抵抗が拡大し、四五年六月には秋田県花岡鉱山で蜂起事件にまで拡大しました。
 【参考】
 「太平洋戦争下の労働運動・日本労働年鑑/特集版」一九六五、法政大学大原社会問題研究所