下町労働史 97

下町ユニオンニュース 2020年2月号より
小畑精武
角界のストライキ
 取り組みの不公平さに抗議 
 下町のスポーツといえば国技館の大相撲。「番外」ですが取上げたいと思います。
本誌第一号で取り上げた小菅(葛飾区)銭座の「賃上げスト」は一八六三年に起こりました。大相撲のスト(嘉永の紛擾)はその前の一八五一年(嘉永四年)に起こっています。
「前相撲と序の口の間の『本中(ほんちゅう)』と呼ばれる力士百余人が、取組編成の不公平さに抗議して場所入りせず、本所の回向院に立てこもった」(朝日新聞、〇四年九月一九日)のです。当時の親方衆が取組の不公平を取り合わなかったために回向院念仏堂へたてこもったのでした。(同じ墨田で百二十年後に大久保製壜の労働者が教会に立てこもってストに入りました)
 一八七三年(明治六年)には、高砂浦五郎をリーダーとする四〇名ほどの力士が「筆頭年寄りが私腹を肥やしている」と力士の窮状を訴え血判誓約書を提出。その結果「階級別給金」「収益金の力士への配分」を勝ちとりました。
202002相撲
朝日新聞 04/09/19
 一八九六年にはトップの独裁に反対した中村楼事件、一九一一年新橋倶楽部事件では関脇以下の力士が回向院に集まり「幕内力士一〇日皆勤出場、総収入の「一割分配」「養老基金(退職金)」を要求し「帰参(職場復帰)」で解決しています。
養老金(退職金)の改善へ
 一九一七年(大正六年)には不幸にも国技館が全焼、三年後に再建されますが相撲人気は落ちていきました。
一九二三年一月の三河島事件では十両以上の力士、行司が養老金の増額を要求し、横綱は土俵入りのみでストへ入り上野の旅館(後に三河島の日本電解工業工場)に立てこもり泥沼状態へ入りました。
初日を迎え土俵に上がったのは幕下以下の力士のみ、横綱は土俵入りのみ。協会は警視総監に調停を依頼し解決に向かった。行司の勝負決定権、観覧料の引き下げ、興行日数の増加(退職金増額)、決算の明確化と協会員への公表でようやく解決しました。
 これにより、養老金の増額、八場所が必要だった養老金受給の権利が一場所で得られるようになった。
同じ二三年九月一日に関東大震災、またまた国技館が全焼。二五年には東西の相撲協会が合併し財団法人日本相撲協会が設立されます。
相撲道改革の大争議
 一九二八年の春場所からラジオの実況放送が始まり、仕切り制限時間や土俵の大きさなど大きく「改革」されました。
一九三二年(昭和七年)の春秋園事件では出羽の海部屋の関脇天龍がマゲを切って、協会がいかに腐敗しているか、ずさんな経営で一部親方は私腹を肥やしているか、給料の安さ、茶屋制度を問題として大関を含め三二名の力士が以下の十ヵ条の要求を提出しました。
 一、協会会計制度の確立
 二、興行時間の改正
 三、入場料値下げによる相撲の大衆化
 四、相撲茶屋の撤廃
 五、年寄制度の漸次撤廃
 六、養老金制度の確立
 七、地方巡業制度の抜本的改善
 八、力士生活の安定化
 九、冗員(じょういん:余った人のこと)の整理努力
 十、力士協会設立と共済制度の確立
 回答に不満な天龍たちは「相撲道改革」を訴え新興力士団を設立。第二組合のような革新力士団も相撲協会の改革を訴え合同の大阪場所興行を成功させます。しかし結局巧みな「協会への帰参」策に敗れやがて戦争の時代に入っていきました。
今日からみて貴乃花事件のようにまだまだ大相撲にかかわる協会の根は深い。
【参考】「昭和大相撲騒動記」二〇〇六、大山眞人、平凡社新書