下町労働史 94

下町ユニオンニュース 2019年11月号より
                            小 畑 精 武
戦時体制下の「活動家」
 これまで下町労働運動史で取り上げてきた労働運動・社会運動の活動家たちは、労働組合はじめ政党、社会団体が権力による弾圧を受け運動と活動が制限され、つぶされていきます。戦時体制下でどのような活動、生活をしていたのか、みていきたいと思います。

非転向を貫いた丹野セツ

丹野セツは、南葛労働会を創設した渡辺政之輔の妻として、また共産党の活動家として亀戸の東京モスリン、日清紡などに労働者組織化の潜り込みをはかりました。しかしほとんどがつぶされます。その後非転向の地下活動を続け、渡辺政之輔の虐殺の二日前、一九二八年一〇月四日に再逮捕されました。獄中で丹野セツは「非転向」を貫き、一〇年後三八年に満期となって出獄します。その間に、共産党の指導部であった佐野文(早稲田大学講師)と鍋山貞親(労働者出身)は三三年六月に「転向声明」を出し、共産党は壊滅していきました。
元々看護婦であった丹野セツは、出獄後いったんは結婚しますが離婚。病院看護婦、派出看護婦を経て、保健婦試験に合格し一九四三年から工場保健婦になります。工場の朝礼にある宮城遥拝を拒否し、特高に尾行され続けて敗戦を迎えました。
渡辺・丹野セツ夫妻

転向し、また活動し再逮捕―帯刀貞代

 共産党でない革新、無産党系の全国婦人同盟書記長だった帯刀貞代は労働女塾をつくって三〇年の東洋モスリン争議を支援しました。争議の改良主義的な指導に疑問を持った帯刀は三一年に共産青年同盟に加入し、中央本部機関誌や資料調査に従事、地下活動に入ります。日本橋で街頭宣伝中に検挙され獄中へ、三四年に転向の上申書を書き、二年の刑・執行猶予四年で出獄。その後、編集作業に従事しましたが、四四年六月に再び代々木署に再検挙されて二〇〇日拘留、心臓肥大症の悪化で出所となりました。
 一二歳で東京モスリンに就職し争議を闘った山内みなは東京を離れ、大阪で女工たちの争議支援を続けました。しかし東洋紡のスト支援後に警察の追及を逃れて東京へ。結婚して一家で再び大阪へ転居、洋裁を習い三六年には市岡で洋裁店を開き、四一年心斎橋に店を持ちます。しかし、四五年三月一三日の大坂大空襲で消失、家族は山内の実家宮城県に疎開します。
島上善五郎は保険外交員、徴用工に
 下町になじみが深い東京交通労働組合(東交)の島上善五郎さんは、一九三七年一二月に「人民戦線事件」で東交三七名が逮捕、約一年半投獄後未決で保釈となって軍部独裁の世の中に出獄。小学生以下の子ども八人を抱え苦悩していた頃に、「あなたは顔が広いから生命保険の外交員になったらどうか」とすすめられ日本生命の臨時外交員に。紹介で作家の武田麟太郎を訪ね、当時としては破格な一万円の生命保険を獲得しています。武田麟太郎は帝大セツルメント(墨田区)で労働教育部を担当しプロレタリア文学でも有名でした。
 保険外交員が行き詰り、南旺映画社の振興係に。そこも戦時下東宝へ吸収され、自宅近く葛飾区青戸の機銃弾倉軍需工場に仕上げ工として二年間徴用されました。徴用工の半数は学徒動員、半数は商店経営者。三九歳ではじめてヤスリをにぎりました。監視する工場派遣の青年将校の鋭い眼を背景にがんばり優良徴用工になります。天皇の玉音放送に「われわれの起ち上がるとき」と感じ、島上さんは「労組再建の志を胸に、廃墟と化していた自由の新天地へと飛び立った」のです。
【参考】
「丹野セツ」一九七〇、勁草書房 
「山内みな自伝」一九七五、新宿書房
「昭和史の証言―島上善五郎がたどった奇跡」二〇一三、図書新聞

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