下町労働史 88

下町ユニオンニュース 2019年2月号より
戦前の下町労働史 その五十   小 畑 精 武
労働者消費組合運動と戸沢仁三郎 ②
 純労(純労働者組合)は亀戸事件で平沢計七を失い、戸沢は大阪に逃げのび、岡本利吉が震災後の再建に奮闘します。岡本は一九一九年に企業立憲会を設立し、大島に労働会館を建設、労資協調を土台に日曜労働学校、文化講座を開きます。二〇年には消費組合共働社(後に関東消費連盟)を創立、労働金庫、月島の労働会館開設と幅広い活動を展開していました。
 帰京後鋳物工場に就職した戸沢を岡本は一五年四月に消費組合連盟の主事として迎えます。一〇月から翌年四月戸沢は秘密裏にソ連に渡ります。「戸沢がロシアに連れ込まれた」と岡本は疑います。戸沢をはっきりと共産党、評議会にひきこもうとしたのではないでしょうか。
 この頃の戸沢は、労働組合運動を中心に考えていますが、純労が震災で幹部を失い、就職もままならない状況の下で、消費組合運動と労働組合運動の両立を考えていたといえます。
 一九二五年一一月、消費組合連盟は関東消費組合連盟と改称し、岡本は顧問に、広田金一が中央執行委員長に。戸沢は二七年一月共働社理事長になります。この頃から戸沢は消費組合運動に傾いていきます。機械連合や純労の労働組合活動は「もはや私の活動には不適当である。評議会は乗り気がしない」とある手紙で書いています。とくに、「乗り気がしない」評議会は、かつて汽車会社東京工場の争議で闘い方をめぐってはげしく対立した渡辺政之輔(共産党)が評議会の中心にいることへの確執があったと思われます。
消費組合連盟
 労働組合運動は戦前左右の分裂を含め多くの分裂を経験しますが、消費組合運動においても分裂がすすみます。一九二九年、関東消費連盟の分裂は、第一に、市民消費組合と関消連が東京消費組合協会を設立する問題で、関消連は独自の機能を協会が吸収し関消連を形骸化すると左派は捉えました。結局中央執行委員会によって否決され、広田と左派との間にしこりができていきます。第二は教育部長や岡本利吉の講義に関消連青年部が「反動的で・非階級的」とボイコットし分裂が進行していきます。
 労働者消費組合の分裂
 分裂の背景には、二五年の博文館争議(評議会系)や二七年の野田醤油争議(総同盟系)の敗北がありました。
 争議の兵站部として消費組合をとらえるのか、争議に深入りすべきではない(経営第一主義)という総同盟系の考え方が対立し、二九年一〇月の臨時大会で東京共働社、江東消費組合などが退場し、関消連は分裂したのです。
 戸沢は分裂を避けるために動きます。大会で、顧問岡本を中央執行委員長に、自らは中執と経営部長に。最大課題は経営危機をいかに克服するかです。底辺を広げる方針です。次年度の大会で「組合員の生活点にその組織の根を持たなかった」と自己批判。争議が増加するなかで、対立を超え生活点に根をおろし、闘う組合員の生活を支えていきました。この誌上で取り上げてきた東京市電、大島製鋼所、城東電車、東洋モスリンなどの争議でも「イデオロギー的立場を超えて」積極的に支援しました。米、味噌、醤油、薪炭など生活必需品を生産者から仕入れ、争議中の組合員に原価で販売し、無償の時も。応援金を集め、争議団ニュースを発行、慰問も行い、惨敗した労働者たちの負債も負ったのです。
 戦後、生協運動を再建
 戸沢は「消費組合は労働者が作った労働者の組合なのだ。応援するもしないもない。全く自然なことなのだ」と述べている。三一年共産党に入党、三二年には関消連の中央執行委員長に、三三年には全国無産者消費連盟の創立と同時に中央執行委員長に就きました。
 同年、関消連は東京で「米よこせ運動」を展開し全国に広がります。政府の過剰古米を労働者、失業者、貧農へ無償配給せよと要求します。そしてついに認めさせます。軍国主義の流れが強くなっていった三四年、三七年と消費者連盟にも弾圧の手が伸びて戸沢も検挙されます。肺浸潤のため起訴猶予になり、釈放されます。しかし、力尽き、関消連も日消連も三八年に解散を余儀なくされました。実直な戸沢は戦後生協運動に奮闘しました。
【参考】「日本労働運動の先駆者たち」労働史研究同人会、慶應通信・一九八五、