下町労働運動史 60

下町ユニオンニュース 2016年7月号より
戦前の下町労働運動史 その23
賛育会とあそか会

小畑精武
無料診察から始まった賛育会
賛育会病院は錦糸町(墨田区太平)にあります。「わたしはここで生まれたヨ」という声をよく聞きます。賛育会は「一九一七年(大正六年)に東京帝国大学キリスト教青年会(東大YMCA)の有志が貧しい庶民のために無料診療を行ったことが、はじまりでした。」(賛育会HP)その中に初代病院長になる河田茂博士がいました。医療は金持ちのもの庶民には手が届かない時代です。
一九一八年三月一六日、賛育会はキリスト教精神である「隣人愛」に基き「女性、子どもの保護・保健、救療」を目的に、初代理事長木下正中博士、医院長河田茂と大正デモクラシーの代表者吉野作造博士を指導役として創立されます。四月一日、古工場を借りてベッド一つの「妊婦乳児相談所」を開設、これが賛育会病院の最初でした。翌年、庶民を対象とした日本初の産院が開設されました。
関東大震災で産院消失テントで再開
一九二三年九月一日、昼前、マグニチュード七・九の関東大地震発生、賛育会本所産院(現賛育会病院)を容赦なく襲います。
三三歳の河田茂は産院の食堂で昼食中、食堂の隣の託児所の子どもを避難させ、二階の入院中の産婦一〇人も壁が落ちるなか救援。三五~三六人の乳児、産婦、託児所の子どもが助かりました。

しかし、産院は消失、河田は呆然としましたがただちに救援班を組織し、テントによる臨時の産院を設けます。その後も、産院の再建に尽力し、仮建築の産院を元の場所に建てます。無償の慈善事業から有償の社会事業に転換していきました。
関東大震災後に東京帝大学生による救護活動や借地借家調停が始まり、翌年賀川豊彦からその継続を求められ、賛育会の隣柳島に東京帝大セツルメントがつくられます。
一九四五年三月一〇日、今度は東京大空襲が賛育会を襲います。患者を炎の海の中、避難させることができましたが、施設はすべて焼失。戦争に次々と医者も出征し、関東大震災時のように再建は難しく、空襲後二日後に焼けただれた賛育会病院の屋上で解散式を余儀なくされました。しかし、戦後一九四六年に戦地からスタッフが帰還し賛育会病院の復興が始まります。
あそか会の設立
関東大震災被災者救援から始まる
あそか会病院は貧しい人々が住んでいた江東区の猿江に設立されました。賛育会はキリスト教徒が中心に。あそか会は仏教(浄土真宗)の西本願寺の九条武子たちによって、一九二三年の関東大震災後被災者の救護所を上野、日比谷、江東に設けたのが始まりです。あそか(無憂華)は仏教の三大聖樹の一つ。九条武子の歌集「無憂華」の印税を基に、一九三〇年に現在地(当時は深川区猿江裏)に鉄筋コンクリート三階建病院を開設します。二〇〇坪の土地を同潤会(大震災後の住宅建設を進めた公的団体、同潤会アパートが有名)から借りました。
 看護婦田中もとの活躍
若くして四二歳で亡くなった武子の遺志を継いで、土地探しや資金集めなど、苦労して病院建設を進めたのが看護婦田中もとでした。病院経営や社会事業などあそか会の基礎をつくります。三五年には財団法人になりました。
三四病床で診療科目は内科、外科、小児科、産婦人科、耳鼻科、眼科、歯科。診療は無料と有料があり、自治体発行の施療券を持参すると無料になりました。貧困の妊産婦は無料でお産をし、産後も1~2週間病院で過ごすことができ、乳児にも目が届きました。その結果地域の死産率や乳児死亡率は確実に減っていきました。
二つの病院建設にキリスト教、仏教と宗教が根本にあったことは考えさせられます。
【参考】
賛育会ホームページ
江東区女性史編集委員会編「江東に生きた女性たち‐水彩のまちの近代」ドメス出版