下町労働運動史 58

下町ユニオンニュース 2016年5月号より
戦前の下町労働史 その21
  小畑精武
山花てるみさん・バス車掌の仕事
久田てるみさんが山花秀雄さんと結婚する前の仕事は派出看護婦でした。そこでの労働は病院とは違います。事務所は麻布六本木。利用者は「ブルジョア家庭で気位が高く、病人も我儘で看護婦を対等の人間とみなさず、女中代りに雑用を言いつけたりすることが珍しくなかった」のです。束縛される泊まり込みの看護、自分の時間が取れない労働に不満を持つようになり、街頭の看板で見つけた、一日八時間労働、制服支給、満一五歳以上、日給九六銭という青バスの女子車掌募集に応じました。一九二七年四月二〇歳でした。
三〇人の募集に一〇〇人以上が応募、口頭試問と作文試験にパス、上野営業所で一月の研修、空車に乗って停留所を覚える実地訓練、
その上で警視庁から免許証がおりました。
私営青バスの新宿営業所→築地→東京駅が仕事のコースです。六日ごとに公休一回、公休日出勤は二倍の賃金、早出などには特別手当がつき、一日フル乗務を希望して収入を得ることもできたそうです月収にして五〇円は当時としては高い賃金でした。
青バス
健康保険、生理休暇要求でスト
一九二八年七月、市バス「円太郎」の車掌一〇〇人以上が男女差別待遇撤廃要求でストライキに入りました。私営の青バスでも健康保険獲得、生理休暇、オーバー支給などを要求して、ストライキに入りました。てるみさんはストの中心で活躍、会社からにらまれます。下宿の主人が無産政党関係者で「資本論」を読むようになります。難しいところもありましたが、婦人の解放を含め労働者全体の解放歌い上げるマルクスの思想が少しづつ理解できるようになります。築地小劇場に通い、ゴリキーの「母」や「どん底」、レマルクの「西部戦線異状なし」などは自らの生き方を励ます刺激になりました。
突然会社から解雇処分を受けます。だが仲間たちや乗客からの復職運動がみのり解雇は免れました。やがて労農党大山郁夫委員長の右腕といわれた山花秀雄さんと「いつの間にか一緒になっていた」そうです。一九三〇年に結婚、その後も出産まで仕事を継続しましました。
不足金弁納制度、服装検査
「大正期の職業婦人」(村上信彦)によると、車掌の仕事の問題に「不足金弁納制度」がありました。これは一日の切符の売り上げが実際受け取った金額より多い場合、その不足分が給料から引かれ、逆に現金が多い場合には会社の利益として収める制度です。戦後にまで続いた会社もありました。
第二の問題は「服装検査」です。仕事が終わって退社をする前に車掌は必ず営業所の風呂に入らなければならない制度で、その間に女性の検査官が衣類を調べ、着服した不正金の有無を調べました。市バスが都バスに代っても続いたそうです。私営バスはその後車掌をホールドアップの体勢にして胸、腹、ブラウス、スカートの検査をする人権侵害を続けました。
車掌の仕事は「モダン」
さらに、てるみさんによると、①生理休暇はストによって三日間取れるようになったが、無給のためよほど苦しくない限り休まなかった、②戦後私営バスで一般化する車掌による車体清掃はなかった、③食事やトイレに行く時間で苦労はなかった、④運転士が車掌を私用に使うこともなかったそうです。「当時職業婦人として収入が多かったのは看護婦とバスの車掌。大げさに言うなら、大変モダンな感じで眺められた」と回想しています。
当時の車掌の仕事と比べると戦後の車掌の仕事は、車体清掃、食事時間、トイレ時間と場所、運転士の私用に使われるなど、劣悪化しました。今ではワンマン運転化され、女性運転士も見かけます。「男女均等待遇」は保障されているのでしょうか?
てるみさんは、結婚後は帝大セツルメント消費組合で働くことになります。
【参考】村上信彦「大正期の職業婦人」
(ドメス出版、一九八三)
山花郁子「山花てるみ一〇〇歳‐輝いた日々を刻んで‐」