下町労働運動史 57

下町ユニオンニュース 2016年4月号より
戦前の下町労働運動史20   
小畑精武
反ナチ反ファッショを貫く
下町から全国へ 山花さん
一九三一年一〇月対華(中国)出兵反対大演説会が本所公会堂で開かれます。一二月には全国労農大衆党第二回大会が「帝国主義ブルジョアジーに対する反ファッショ闘争の運動方針」を採択。山花さんは常任中央執行委員・国際部長になります。
しかし、党内で戦争賛成派が増加、三二年七月には社会民衆党と全国労農大衆党が合同して社会大衆党が結成されます。山花さんは加藤勘十たちと全国労農大衆党を脱党して、労働組合運動に専念することになります。
総評を中心に東交を含む日本交通総連盟、東京市従などによる戦線統一懇談会を結成。八月から一二月にかけては江東映画支部東電気館争議を闘いました。
その後も山花さんは戦争反対、反ナチス・ファッショの合法左翼の政治的闘いと労働運動を展開。三三年に総評、統一会議、東交、東京市従などによる関東労働組合会議を結成し、合法左翼戦線の統一を追求しました。
三三年六月には反ナチス・ファッショ粉砕同盟を結成、七月には反ナチス・ファッショ排撃民衆大会を本所公会堂で開催、一〇〇〇人が参加、警察の弾圧に抗議した山花さんは責任者として逮捕され二九日間の勾留処分を受けました。これにハンガーストライキで抗議したら、中野の豊多摩刑務所に入れられてしまいました。201604メーデー検束
写真:メーデーでの検束(山花さんではない)
 三四年二月には東京市の新税に反対して「勤労市民税反対協議会」を結成、三月本所区の区議選に立候補しますが落選。
 五月、合法左翼労働組合戦線の統一として江東地方労働組合会議を結成、総評、統一会議、全関、関東一般、江東一般、江東従協が参加しています。一一月には五八組合、約一万三千人が加盟する日本労働組合全国評議会(全評・加藤勘十委員長)が誕生し、中央執行委員・財政部長になりました。全評は「総同盟の労働組合主義に対して階級闘争主義による」統一をめざし結成されたものです。松岡駒吉や西尾末廣に率いられた右派の総同盟を「労働組合主義」と批判し、全体的な統一には至りませんでした。唯一、三一年、三四年と続いた東北飢饉救援にイデオロギーを乗り越えて全無産団体東京協議会へ結集します。
右派と左派のメーデースローガン
三四年のメーデーは左派が二五〇〇名、スローガンは「労働者農民の敵ファッショを粉砕しろ」「民族・性・年令を問わず同一労働に同一賃金をよこせ」「臨時工を即時本工にしろ」「首切賃下げ労働強化絶対反対」。
右派は三五〇〇名で楽隊を先頭に葬式デモ、「一等国らしく労働賃金を引き上げよ」「政府は軍需工場の不当利得を取締まれ」「労働組合法を制定せよ」「健全なる労働組合主義の確立」で大きくかけ離れていました。
三五年一一月には深川木場で製材労働者生活擁護労働者大会が開かれ、生活擁護同盟が結成されます。この頃江東地区には江東一般や江東地方従業員組合協議会などの組織ができています。(詳しいことはよくわかりません。宿題です。)
 妻の一言で「非転向」を貫く
全国を飛び回っていた山花秀雄さんに対し、妻てるみさんは三四年の東京市電人員整理反対・賃下げ反対ストライキの応援団に。当局案の撤回を求めて市長宅夫人へ申し入れ「一か月二六円では生活できない。同情の言葉を聞きに参ったのではない」と訴え、そばの子どや赤ん坊が泣く始末となりました。
一九三六年二・二六事件の当日長男貞夫(後に弁護士、元社会党委員長)が誕生。
三七年七月日中戦争勃発の日に帝国主義戦争反対の大演説会を本所緑小学校で開催、これは戦前最後の大演説会となりました。一二月には人民戦線事件で逮捕され二年間投獄されます。官憲からの転向の誘いに対して、妻てるみさんからの「転向するな」のメモを心にして非転向でがんばりました。
【参考】山花秀雄「山花秀雄回顧録」
(日本社会党機関紙局一九七九)
「山花てるみさんにきく」(「まなぶ」)