下町労働運動史 55

下町ユニオンニュース 2016年2月号より
戦前の下町労働運動史 その一八
大島製鋼争議(下) 
小畑精武
 
 全面臨時休業へ
最初のプロレタリア小学校は短い命でした。しかし、争議は続きます。一九三〇年八月四日に「ストライキ=総罷業」に入った組合は要求を提出、会社は全面回答を拒否。六日には大島町第二小学校に加藤勘十や浅沼稲次郎(戦後社会党委員長、一九六〇年に右翼少年に暗殺)が参加する集会に六〇〇人が参加。
十一日から会社は工場を閉鎖し臨時休業突入。争議団代表四名は本社を訪問し社長秘書と面会しました。その後争議団本部への結集が悪くなり、争議指導に不満を持つ部分が反主流(組合同盟系)になっていきます。それでも争議団は組合員の結集を訴え、家庭訪問を繰り返して団結を守っていきました。
八月二八日から一週間を闘争週間とし、争議団は丸の内の本社、社長、重役の私邸などに家族ぐるみで押しかけ、さらに大川財閥の関連会社、工場への宣伝活動を展開しました。
九月五日会社は工場閉鎖・全員解雇を打ち出し、争議は厳しい局面に入ります。そうした段階で労農少年団(ピオニール)が結成されプロレタリア小学校が設立されました。
2016-2月号
なぜモスリンとの共闘ができなかった
同時期に、大島製鋼所からは歩いて三〇分もかからない隣の亀戸七丁目で東洋モスリンの女工三〇〇〇人が解雇撤回を闘っていました。(四八~五一号参照)でも有効な共闘は成立しませんでした。なぜか?答えになるかどうかわかりませんが、組合の政党系列の違いが大きかったと思われます。大島製鋼所は労農党系(東京金属、旧評議会系、山花秀雄)が主流であったのに対して、東洋モスリンは大衆党系(組合同盟系、加藤勘十、麻生久)が主流で党派争いが激しく、十分な共闘ができなかったと思います。九月二七日には団員三〇人が東洋モスリン支援に行き共闘を申し入れますが、組合同盟系のために要領を得ずに引上げて来たそうです。
争議団でも労農党(組合主流)と大衆党(反主流)との確執が激しくなり、反主流派は「俺達を苦境のドン底につき落とした争議屋をたたき出せ!」とビラを配布し、主流派の組合書記へ暴行が加えられ、六人が検挙されています。表面では共闘し、裏では党勢拡大で対立していたのです。
地域では争議中の葛飾汽船(小名木川の舟運会社・江戸川)と共同戦線をはっています。また錦糸町→水神森→大島→東陽町と水神森→モスリン裏→西荒川間の関連会社城東電車(同じ大川社長)に対しては運賃値下げ運動を地域住民と共に闘っています。
大島製鋼(労農党)から争議中の東京鋼板(大衆党系)に共同闘争の申し入れがなされ、九月二三日には両者の応援演説会が七〇〇名で開かれ、争議団は活気づきます。家庭訪問隊の活動により、毎日一四〇~一五〇人が結集し気勢をあげました。
大阪から争議支援金、東京交通労組の激励、消費組合からは米の差し入れも入りました。
 争議団屈服状態で終結
九月に大島町長による調停が始まります。争議団は「工場閉鎖反対、要求容認、解雇の場合は重役の私財をすべて出せ」との第三次要求を出します。大島町長は積極的に動き会社の専務とも会いました。一〇月に入ると砂町警察は争議団との接触を会社に求めます。しかし会社は動じません。大量の失業者を出した世界恐慌の荒波が襲ってきます。
一〇月六日には労農党(弁士大山郁夫)と大衆党(弁士麻生久)共催の大島製鋼所・東洋モスリン闘争支援演説会が一一〇〇人を集め本所公会堂で開催。二四日のモスリン「市街戦」にどう参加したかは不明です。(警視庁報告にも欠落しており、宿題です。)
一一月に入ると争議団長が辞任、警視庁は会社代表を招致、会社は争議団未加入者に退職手当上積みを支給し、争議団は崩れていきます。争議団は争議打ち切りを砂町署長に嘆願し、屈服状態となります。一〇六日間続いた争議は結局労資代表による若干の解雇手当増額と解決金の覚書を警視庁で交わし、「円満解決」を強いられ終結しました。
【参考】警視庁争議報告(大原社研所蔵)