下町労働運動史 48 

下町ユニオンニュース 2015年6月号より  
戦前の下町労働史 その11 小畑精武
東洋モスリンの争議①
亀戸は紡績の街だった

 「労働女塾」があった一九三〇年当時の亀戸地域は東洋モスリン(亀戸七丁目、略称洋モス)はじめ、東京モスリン(現文花団地)、日清紡(亀戸二丁目団地)など三〇〇〇人規模の大きな紡績工場がありました。一九三〇年当時深川区、大島町、砂町では女子労働者が一割程度に過ぎなかったのに対して、亀戸町では女子労働者は四割を占めていました。
「一九〇七年、亀戸七丁目に設立された東洋モスリンには、新潟、福島などから出稼ぎ女工として、小学校を卒業したばかりの少女から二〇代の若い女性たちが働きにきた。彼女たちは、会社が用意した寄宿舎に入り、一部屋十数人がいっしょの集団生活を送った。」(「江東に生きた女たち」) 
 工場の南側は千葉街道と竪川(現在は高速道路)、北側(現在は京葉道路)には都電(当時は錦糸町から西小松川までの城東電車)が通り、食べ物、着物、下駄、化粧品の店ができ、五の橋館などの映画館もありました。
 洋モス労働組合の歴史と闘い
 洋モスには三工場があり、以前から第三工場の職工一〇〇人ほどの総同盟関東紡織労組請地支部洋モス班がありました。

一九二六年三月には亀戸工場従業員が全員加盟する組合を作ろうと関東紡織労組城東支部が結成されます。その後総同盟第二次分裂をうけ二七年四月には中間派の日本労働組合同盟(組合同盟)日本紡織労組城東支部となりました。
 二七年五月、亀戸第一、第二工場では五〇二一人の労働者のうち四九五一人が参加し左記要求の待遇改善闘争が展開されました。
1、第二工場職工三名(総同盟幹部)を転勤
  させること
2、退職手当を公示すること
3、寄宿女工を自由外出させること
4、徴兵者を休職とすること(従来は退職)
5、臨時工を廃止し普通職工とすること
6、家賃手当を復活すること
7、夜業手当を支給すること(一回十銭)
 会社は要求提出後わずか一日で要求を全て認めました。
日本初の「女工外出の自由」を獲得
 拘置所のような籠の中に入れられ、自由な行動が許されなかった女子紡績労働者にとって「外出の自由」は「人権宣言」(鈴木裕子「女工と労働争議」)でした。
 こうした闘いの経験は女子労働者にとって自信となり、労働組合への信頼が増していきました。組合の威信は高まり組織も拡大をしていきます。しかし、二八年春に組合(城東第一支部)に会計問題が起こり、日本紡織労組から脱退。六月には洋モス従業員組合を結成して組合同盟に直加盟を果たしました。
 女工労働者の深夜業の禁止
翌二九年七月、午後一一時から午前五時までの深夜業が禁止されます。これも歴史的なできごとでした。日本の低賃金長時間労働が国際的に批判を受けていたことに対し日本の資本主義は「改善」を余儀なくされたのです。これに対し資本は「合理化・賃下げ・労働強化」と法が適用されない「中国への進出」で対抗してきました。
洋モスでは、深夜業禁止前一九二六年下期の職工数八八二三人が禁止後二九年上期には六八五八人と二二、三%減員しているにもかかわらず、生産のトップ出来高は一一五万六千ポンドが二二〇万五千ポンドと九〇%も増加しています。
 洋モスは同時に組合破壊をすすめ、三人の組合幹部に対して解雇、組合脱退強要、辞職強要をはかってきました。二九年六月、洋モス従業員組合は深夜業禁止による労働条件低下を見越して、定昇の年二回実施、深夜業廃止後の新手当、月収入の保証などの要求を提出します。
【参考】▼江東区女性史編集委員会「江東に生きた女たち‐水彩のまちの近代」一九九九
    ▼鈴木裕子「女工と労働争議」れんが書新社一九八九