下町労働運動史39 戦前その2

下町ユニオンニュース 2014年8/9月合併号より
戦前の下町労働史 その二
                                 小畑精武
  東京市従業員組合 
一九二六年十二月二五日、大正天皇が逝去、昭和天皇に代ります。この時東京市従業員組合はストライキに入ったのです。
 当時は都ではなく東京府東京市、そのもとに一五区があり、下町東部には深川区、本所区がありました。向島、亀戸や江戸川、葛飾などはまだ東京府南葛飾郡でした。
 戦前は身分制が根強く、市の職員(ホワイトカラー)には労働者意識はほとんどなく、現場の土木、清掃、水道、交通などの労働者が組合を組織していきました。一九一〇年代にようやく都市計画が立案され、道路行政がすすみ、清掃では一九一八年に塵芥処理の東京市直営化が一五区で完了。同時に市の従業員は関東大震災の復興事業も含め増加し、一九二八年には一六八〇〇人を超えました。
東京市従の結成・嘆願書提出 
一九二四年には東京市道路従業員組合が発足、その後清掃労働者や下水道処理労働者など現業労働者が加わり二六年には東京市従業員組合となります。同じころ東京市電従業員自治会も結成されています。発足時の役員(主事)大道憲二(後に委員長)は弾正橋支部(深川)で道路工夫の仕事をしていました。他にも四人の代表委員を出しています。

東京市従機関紙「街頭」から
組合には年寄りが多く、組合結成後、各支部で人員削減反対、歩増減額、職務傷害、組合圧迫などに取り組みました。当初本部は市に直接要求し闘争を組むことには慎重でした。ようやく一九二六年一月に一六項目の待遇改善嘆願書を提出します。(一部略)
一、 賃金三割値上げ
二、 退職手当制度の実施
三、 職務上の傷害に対する補償
四、 雨中作業廃止、防水服支給、箕笠廃止
五、 時間外労働三割以上の歩増
六、 完全な箱番設置、浴場の設置
七、 臨時工夫・臨時人夫の差別待遇撤廃
八、 臨時散水夫に解雇手当支給
九、 作業服の改良
十、 週休制の採用
十一、共済組合の設置と従業員管理
十二、市より低利資金の貸与
十三、年度更改期に解雇者を出さないこと
  人間扱いせよ! 
 この要求は「働いても働いても飯が食えない」長年の思い、人間扱いをしてほしいという思いが噴出したものです。当時土木、清掃など屋外労働者は工場法からも排除されていました。
 東京市従はストライキを避け、まず市との交渉と共に市民への宣伝ビラ一〇万枚をまきます。各支部は街頭で演説会を開き、深川四〇〇人、浅草七〇〇人などが参加。市議会議員への陳情も繰り返しました。
 五月になってようやく市は回答。作業服、雨具改善、箱番改善、浴場設置は認められたが、賃金引き上げは拒否回答、時間外割増、定期昇給や退職金などは改善の意志ありの回答で、九月に一旦集約されます。闘いの成果はわずかでしたが、組合員一五〇〇人が三〇〇〇人へ倍増。当局が企んだ第二組合づくりは粉砕されました。
 
天皇の死を利用した市と警察の弾圧
 警視総監だった市長は二六年十二月二四日から二五日にかけて五〇〇人の解雇を発表。組合員が四分の三を占め、大道委員長など活動家が多数含まれていました。組合はただちに争議団を結成、二六日にストライキ宣言、二七日からのスト指令を出します。市と警察は、二五日の大正天皇の死を最大限利用し「不敬行為」と決めつけてはげしい弾圧を強行。争議は惨敗に終わり組合員は激減。しかしその後、宣伝を強め下水処理場、自動車修理工場を組織して、再び三〇〇〇人を回復していきます。
 【参考】伊藤晃「日本労働組合評議会の研
究‐一九二〇年代労働運動の光芒」、社会評論社、二〇〇一)