下町労働運動史 (37) 大正時代28

下町ユニオンニュース 2014年6月号より
 
                                               小畑精武
大正時代 その28     
                                                     
  東京市電の女性車掌
 連載一五回で関東大震災で壊滅状況に陥った市電を補う形で市営バスが震災翌年一九二四年一月に誕生し、女性車掌が採用されることになった経過を書きました。市バスから四ヵ月後市電にも女性車掌が導入されたのです。
一九二五年(大正一五年)三月二一日に配属、四月から乗務しました。女性車掌が採用された理由は三つあります。第一は乗客の感情を和らげることでした。当時の乗客は言葉が乱暴で、ののしり合いながら乗っていたそうです。車掌が社内混雑に対し「中ほどまでお詰め下さい」と言っただけで「なんだい詰めろ詰めろなんて言いやがって、俺たちをなんだと思っていやがるんだ」と食ってかかり車掌が注意すれば喧嘩になりました。
 第二は従業員同士に潤いが生じるというもの。男性が多い職場に女性が入れば和やかになると当局は思ったのでしょう。しかし、市電自治会(労組)は女性採用には反対だったようです。
 第三は財政節約のためです。当時の市電に補助車掌として賃金が安い女性車掌に担当させ人件費の節約をはかろうと当局は考えました。
女性の賃金(1924年、東京市社会局)
教 師   67円23銭 
市電車掌  50円
タイピスト 40円27銭
事務員   32円
店員    33円25円銭
看護婦   39円13銭
電話交換手 35円60銭
(大卒国家公務員 75円:‘26年)
(日雇い 1日 2円13銭:‘25年)
女性の採用で一日一人約五〇銭違い、一年間には一八〇円、二五〇〇人の採用で三十六万円が節約できるのです。その背景には男性の市電従業員賃金を一割引き上げ、原資が一二〇万円に及び、その捻出方法として低賃金の女性が採用されたのです。
 当時車掌は約七〇〇〇人ですから、約三分の一を女性に変える計画でした。勤務時間は早朝から午後九時まで。募集は一五〇名、一七才以上、小学校卒業程度の学力、既婚者も可、服装は市バス車掌と同じ、初任給は五〇円でした。この当時東京市社会局が調べた女性労働者賃金と比較すると、初任給五〇円は高い方でした。(表参照)
 女性車掌の廃止と復活 
この女性車掌制度はわずか二年三カ月しか続かず、一九二七年六月に廃止になりました。その理由として低賃金の「少年車掌」の採用があげられています。
 しかし、一九三四年(昭和九年)三月女性車掌が復活します。同時に少年車掌が六月に廃止されました。この時も財政難が背景にありました。男性車掌(月給九五円)から女性車掌(三五円六〇銭)に替えることにより、年間百万円が浮いたのです。この時、母性保護の観点から女性車掌採用反対の声が上がり、女性たちの間で意見が分かれました。
一九三五年に一七歳で採用された車掌インタビューによると、採用後三カ月間は教習所、そこで市内全線の暗記、名所旧跡の勉強と実地を回る研修を経て、営業所に配属されます。男性車掌に習うので男性車掌は「お師匠さん」と呼ばれていたそうです。八組編成で七日勤務し、八日目が公休。勤務時間は早出が始発から午後二時頃までが二日、午前八時頃から午後五時頃まで一日、中休=朝夕のラッシュ時に乗務して日中に二~三時間休む二日、午後出~終電頃までが二日です。初任給は日給で一円二〇銭か三〇銭、それに乗務手当、売上手当が付いたそうです。
最初は山の手の目黒線(目黒‐東京駅)、後に下町の三ノ輪線(北千住‐水天宮)で車掌として働き、労働者が多い三ノ輪線の方が混雑した車内でも親切に対応され、いたずらをする人もいなくてやりやすかったと語っています。労働者が彼女を守った理由は、「労働者達にとって彼女は同じ働く人間『俺たちの仲間』であり、その連帯意識から対等の人間意識が生まれ、男とか女とかの差別を越えて親しみと助け合う気持ちが自然に湧き出たと思われる」と「大正期の職業婦人」の著者村上信彦は述べています。
 【参考】
「大正期の職業婦人」村上信彦、ドメス出版、一九八三