下町労働運動史 (36) 大正時代その27

下町ユニオンニュース 2014年5月号より
                  小畑精武
  
本格的労働協約へ 東京製綱
    
左派と右派への分裂
 一九二五年(大正一四年)五月に日本労働組合評議会が総同盟から分岐して結成され、その後の日本労働運動は左右の激しい対立を含みながら、さらに発展していきます。
 左派は亀戸事件以降下町東部では後退を余儀なくされますが、川崎の富士紡績や東京文京区の共同印刷などで組織化と争議を組織しました。全国的にも労働運動は高揚し、組織化が進むとともに愛媛県の別子銅山、静岡県浜松日本楽器でのストライキが闘われました。
  
  ユニオン・ショップ協定
 右派の運動からは団体交渉権の確立が出てきます。一九二四年、総同盟・東京鉄工組合は東京品川の岡部電機製作所との間に団体協約を結びました。東部では、総同盟の関東労働同盟が全国で五工場従業員二三〇〇人を有する大企業ではじめてといわれる労働協約を深川にも工場を持つ東京製綱との間で結んでいます。発端は川崎工場の解雇問題を円満に解決したことにありました。
    覚 書
1、東京製綱株式会社従業員は原則として日本労働総同盟製鋼労働組合員たること
2、東京製綱株式会社は日本労働総同盟製鋼労働組合を公認し、団体交渉権を認むること
3、労資双方とも一切の労働条件の改善に関しては一般製鋼産業の条件を充分に考慮すること
4、組合は不良組合員にたいしてその責任を負うこと
5、会社は出来得るかぎり従業員を優遇し、組合は作業能率の増進に努力すること
 この協約を結んだ関東労働同盟会長が後に総同盟の会長になり理論的にも「労働組合主義」を打ち出した松岡駒吉でした。
 この協約の第一条にあげられているのは、今日日本の多くの労働組合が結んでいるユニオン・ショップ協定です。クローズドショップという見方もあります。
   
団体交渉権の確立
 第二条で会社は企業内での労働組合と団体交渉権を認めました。労働者の権利としての労働組合と団体交渉を認めることになったのです。ストライキ権については触れられていません。戦後は憲法と労働組合法の下に団結、団体交渉とストライキが労働者の権利として認められ、これらの権利を会社が侵害することは労組法違反=不当労働行為となります。労働組合法がない状況下で団結権、団体交渉権を認めさせたことは画期的です。
 第三条で労働条件は「一般製鋼業の条件を充分に考慮する」とし、労資にとっての労働条件の改善基準を「世間並み」にしています。
 第四条は「組合が不良組合員への責任を負う」という最近の協約には見られないユニークものです。ここには松岡駒吉の「産業人としての労働者」という理想が示されています。組合による共同精神、資本からの独立、社会的責任、常識を有する者が労働者であり、その訓練の場が労働組合と考えていました。したがって、産業人にあらざる不良組合員に対して組合は責任を負うことになるのです。
   生産性向上への道
 第五条は会社が進める生産性向上に組合が協力し、その成果を労働者に分配するという生産性原理といえるでしょう。この点をめぐって戦後の労働運動は「合理化絶対反対」の左派と「生産性向上に協力・分配で対立」の右派が対立しました。さらにこの考えは企業組合への道を開くものでした。
 松岡の「労働組合主義」は、労働組合は産業資本家による専制支配を打ち破り、労働者の生活を守り、向上させるもので、イギリスのウエッブにならって、労働条件の維持改善、生活の向上をはかる常設団体と考えました。国民生活の発展につながる産業の発達を目標とし、その手段として労働組合を位置づけ、その延長に「労資対等」を考えたのです
会社はこの労働協約を認めることにより組合の穏健化をはかろうとし、政府の組合体制内化をはかろうとする協調路線と同一歩調をとることになりました。
【参考】安田尚道「『労働組合主義』の現実と苦悩‐松岡駒吉」(「日本労働運動の先駆者たち」所収、慶應通信、一九八五)