下町労働運動史(33) 大正時代の下町労働史 その25

下町ユニオンニュース 2014年3月号より
大正時代の下町労働史 25 
小畑精武
現実主義への方向転換と左派
関東大震災直後の労働運動は転換期を迎えます。大杉栄が殺害されアナーキズム、サンジカリズムが後退していきます。他方、総同盟は主流の社会民主主義派と左派の共産主義派との分裂へ向かいました。
総同盟鈴木文治会長は「労働組合は大衆に基礎を置くべきだ。社会改造については公正なる意見を有する識者の与論の首肯すべきものでなければならない」と「方向転換」を訴えます。総同盟第一三年度大会の宣言草案には「従来の観念的運動は、明らかに誤り。現実的利益を擁護しつつ、終局の目的に向かって進むべきものである」とあります。左派は「方向転換というよりも、過去の闘争を打ち捨てて、支配階級の前に屈する」と憤慨。修正案がつくられます。修正案は「労働運動は少数者の運動から転じて、大衆的運動に向かうべき一段階に到達し、改良的政策にたいする従来の消極的態度は、積極的にこれを利用することに改めねばならぬ。」と妥協の産物となり、満場の拍手で方向転換宣言を可決しました。背景には亀戸事件から普通選挙実施、ILOへの代表派遣、労働組合法制定、治安維持法への動きなど関東大震災後の社会変化がありました。
関東大震災前後の労組組織率
     組合数  組合員数  組織率
1921年  300   103,412  -
1922年  387   137,381  5.3%
1923年  432   125,551  5.6%
1924年  469   228,279  6.0%
1925年  457   254,262  6.5%
この間、労働者の生活は厳しさを増し、労働組合組織は着実に伸びていきました。
 総同盟は二五年の大会で決定的な分裂に至ります。その前の二四年一〇月の関東労働同盟大会で左右対立が激化し、右派主流派は役員独占をねらいました。議長の横暴不公平を糾弾した渡辺政之輔(労働者出身でやがて共産党委員長になる)にひき入れられた左派四組合(東部合同、関東印刷、横浜合同、時計工組合)が退場します。同時に理事会は渡辺たち六人の除名を決議。しかし本部の調整が入り、四組合は本部直属とし一二月に総同盟関東地方評議会(会長東部合同、藤沼栄四郎)を創設します。
東京合同労組の設立 本部は本所太平町
一九二五年(大正一四年)三月一二日、渡辺政之輔の東京東部合同労組に北部合同、南部合同平塚支部が加盟し、東京合同労組となります。さらに西部合同労組が加盟。組合員は東部合同五八〇人、北部合同二二〇人、西部合同が一〇〇人と一〇〇〇人近い組合員に拡大します。組合活動が自由な今日とさほど変わらない勢力に発展していきました。本部は東京東部合同労組の事務所。今の錦糸町オリナスの交差点に近い本所区太平町二‐二〇三でした。
東京合同労組は青年部の設置を決議するとともに、以下の八専門部を設けます。
①組織部 ②争議部 ③政治部 ④調査部 ⑤教育部 ⑥出版部 ⑦会計部 ⑧婦人部 
さらに、組織方針として渡辺政之輔は「自主的工場委員会」運動を提起します。しかし分裂後に結成された評議会の大会で否決されてしまいます。労働組合が工場の外に支部が組織され工場には分会が組織されるのに対して、工場委員会は一工場における労働条件に労働者の注意を向けるものです。将来は工場の産業的管理を準備し、訓練することを目的としました。
労働組合運動の分裂は普通選挙をめぐっても意見が分かれ、共産主義勢力は治安維持法で徹底的に解体へ追い込まれます。しかし、労働者の運動は右派においても戦闘性を維持して展開され、昭和期へと入っていきます。労働組合法もなく、労働組合活動が不自由な大正期においても、関東大震災後も着実に組合員は増加していきました。
【参考】
 「渡辺政之輔とその時代」
(加藤文三、学習の友社、二〇一〇年