下町労働運動史(27) 大正時代その19

下町ユニオンニュース 2013年7月号より
荒川放水路建設と朝鮮人虐殺     小畑精武
下町の大洪水と荒川放水路の建設
隅田川(上流は荒川)と江戸川に挟まれた下町は縄文時代には海でした。埼玉県の内部に広がっている貝塚の分布からそのことはいえます。その後、徐々に陸化し現在の下町の地形がつくられていきます。利根川も昔は現在の江戸川、中川から江戸湾に注ぎ込みたびたび洪水を引き起こし、江戸幕府は利根川の流れを現在のように付け替えました。秩父山地に水源をもつ荒川(隅田川)も文字通りの「荒川」でたびたび江戸の町を大洪水となって襲いました。人口が増加し街が形成されていった明治になっても洪水はたえません。なかでも明治四〇年、四三年と大洪水が続き、隅田川と江戸川の間に荒川放水路をつくって洪水を防ぐことになったのです。
一九一一年(明治四四年)から開削工事が始まりました。(写真)放水路工事の労働者は葛飾や江戸川、さらに行徳などから農家の二男、三男が農閑期によくきたそうです。一日の賃金は五〇銭でしたが、現金収入が乏しい農家にとってはありがたい収入でした。下町労働運動史27
 一九一〇年に日本の植民地となった朝鮮(韓国)からも放水路工事に労働者が来ました。小松川から葛西橋の間
の工事にかなりいたそうです。
京成の四ツ木や荒川駅周辺の土手建設や京成線の高架工事にも四〇、五〇人ほどが働いていました。彼らの賃金は日本人の半分から三分の一程度でした。
荒川放水路の川原で焼き殺された
一九二三年九月一日の関東大震災では、建設中の土手があちこちで大きな亀裂を生じ、完成したばかりの堀切橋も壊れました。しかし、江北橋、西新井橋、四ツ木橋、小松川橋は残り、都心から火の海の中を逃げ出す人々が避難していきました。
「朝鮮人が井戸に毒を入れた」「暴動を起こしている」などのデマが広がります。各地に自警団がつくられ、朝鮮人が捕まえられ、殺されていきました。建設途中の荒川放水路の河川敷は「虐殺」の修羅場にもなります。旧四ツ木橋の近くでは、習志野から騎兵隊が来て、連れてきた朝鮮人を川の方に向けて並ばせ、機関銃で撃ち殺しました。穴を掘りガソリンをかけ焼き埋めました。もちろんその中には放水路工事で働いていた朝鮮人労働者もいました。日本語がよくわからない朝鮮人労働者が日本語のわかる朝鮮人に「さっぱりわからんから通訳をしてくれ」と言ったとたんに自警団から一刀両断、無念にも殺されていきました。
六〇〇〇人が犠牲に
同時に進行したのが亀戸署での南葛労働会、純労働者組合活動家一〇人の虐殺「亀戸事件」です。(本誌二〇一二年一二月号から一三年二月号)朝鮮人の犠牲者の正確な数は不明ですが、六〇〇〇人以上とみられています。当時東京、横浜には約三万人の朝鮮人が住んでいました。二割が犠牲になったのです。放水路工事に従事していた朝鮮人労働者の数は正確にはわかりません。しかし、当時発展しつつあった下町の工場には多くの朝鮮人が働きに来ていたことは想像がつきます。
朝鮮人だけでありません。中国人も約四〇〇人が殺されました。旧南葛飾郡大島町(現江東区)で中国人労働者の生活改善運動に取り組み一九二二年に僑日共済会を設立した王希天(YMCA幹事、学生)が行方不明になります。後(一九七五年)に兵士の日記が発見され軍隊によって殺されたことが明らかになりました。
【参考】 「荒川放水路物語」(絹田幸恵、新草出版、一九九二)「関東大震災と王希天事件‐もうひとつの虐殺秘史」(田原洋、三一書房、一九八二)
*絹田幸恵さんたちは「関東大震災時に殺された朝鮮人の遺骨を発掘し慰霊する会」をつくって、八二年から毎年九月に旧四ツ木橋下手の河川敷で朝鮮人受難者の追悼式を行い、〇九年に追悼碑を完成させています。