下町労働運動史 (26) 大正時代 その18

下町ユニオンニュース 2013年6月号より
大正時代の下町労働史 その18
島上善五郎さんの大震災
           小畑精武
先日偶然、「昭和史の証言‐島上善五郎のたどった軌跡」という最近再出版された本を見つけました。そこには、島上さんが秋田の寒村で一九〇三年に生まれ(佐々木姓)、一七歳の時に上京し東京市電の補助車掌になり、東京市電のストライキの指導者、投獄、戦後の東交再建、総評初代事務局長、社会党衆議院議員として歩んだ島上さんの一生が語られています。
島上善五郎さんは職場の先輩で市電労働運動の師匠でもあった島上勝次郎(震災で亡くなった)の長女と震災後に結婚し、島上姓となります。
関東大震災当時、私(島上善五郎)は一九歳。災害のもっとも激しかった本所亀沢町に職場を持ち、その近くで一望焼け野原と化した深川森下町に住んでいました。職場の友人と二人で民家の二階の六畳間を借りていました。その日は午後の出勤で、朝寝坊をし朝食を取らずにいたところ、ドカンと強い上下動、続いて左右にゆらゆら揺れ動き、「地震だ!地震だ!」素早く電車車掌の制服を着て、家主の三歳の子と一緒に清澄公園に逃げ込みます。しかしそこは満員。さらに永代橋際
まで逃げます。夜が更ける頃木橋に火がつきはじめ、川に飛び込む決心をしたところ、流れてきた伝馬船に乗り移ってかろうじて命拾いをしました。
ひどい疲労と空腹に襲われ、無言のまま重い足を引きずりながらトボトボと歩いて三時間、亀沢町の車庫にたどり着きます。だが、車庫は焼けただれ、電車の残骸だけが並んでいるだけ、目の前がぐらぐらと暗闇になりました。ガードの向こうの被服廠跡は見渡す限り、折り重なった死体の山、死臭がたちこめ呼吸も苦しいほどでした。
 
   亀戸事件で危うかった石毛先輩
 一角が焼け残った亀戸の友人石毛留吉宅を訪ねます。そこには先輩の島上勝次郎の妻と長女邦が避難していました。
 明けて九月三日、どこからともなく社会主義者と朝鮮人が「山の手」で(山の手では神奈川、多摩川方面といわれた)暴動を起こしているとの流言が流れてきます。そこへ亀戸署の特高刑事がやってきて石毛留吉を連行しました。三日三晩留められ顔の層が変わるほど殴られ、「絶対に他言してはならぬぞ」と脅されて帰されてきます。しかし石毛は川合義虎や平沢計七たちが亀戸署内で夕闇をつんざく悲鳴を残して殺された亀戸事件の片鱗を悲憤の涙で語りました。
 労技会(向島にあった日本車両の労働組合)の幹部は赤い表紙の社会主義の本を懐中に入れていたばかりに自警団に追い回され白髭橋で刺殺されました。
 戒厳令を布いて治安の実権を確保した軍(あるいは軍の一部)に、この機会をとらえて社会主義者や朝鮮人を徹底的に弾圧しようとの計画があったのではないか。
 避難先に近い十間川には、自警団に殺された朝鮮人の死体がブクブクと浮かんでいました。日本人が朝鮮人と間違われて殺された例もあります。震災数日後、「朝鮮人だ」との声があがり駆けつけてみると、なんと秋田から一緒に上京して市電に就職した佐々木君が自警団に囲まれていました。秋田なまりでモタモタしていたため間違われたのです。危機一髪!中に入って、市電車掌の免許証を見せてやっと助け出しました。
 着のみ着のままで貯金もない島上さんは友人とともに郷里の秋田に帰りました。約一か月余で職場に戻り、車庫の片づけ、他から回された電車を動かし始めます。明けて一九二四年組合づくりの火は再び燃え始めました。市電復興をテーマに八日間連続の職場集会を開くことに成功するのです。
 【参考】「昭和史の証言‐島上善五郎のたどった軌跡」島上善五郎、図書新聞、二〇一三
*本屋ではなかなか買えませんが、島上さんの後輩でもある元東交江戸川支部長高橋治巳さんのご好意で一冊二〇〇〇円で購入できます。
島上善五郎大正期