下町労働運動史18 大正時代10

下町ユニオンニュース 2012年10月号より
大正時代の下町労働史 10
小畑 精武
関東大震災「亀戸事件」前夜②
純労働者組合の平沢計七
 平沢計七(三四歳)は関東大震災「亀戸事件」で殺された社会主義者、労組活動家一〇人の一人ですが、中筋卯吉(二四歳)とともに純労働者組合所属です。当初は友愛会に属していました。平沢計七は左翼化、戦闘化する友愛会のなかでは穏健派ともいえる立場でした。
平沢計七は一八八九年新潟県小千谷に生まれ日本鉄道大宮工場(現JR東日本大宮工場)で父親と共に働き始めました。そこで文学に入り「文章世界」「少年倶楽部」などに投稿しています。日露戦争に非戦的立場を取った劇作家小山内薫に憧れ、自ら書いた戯曲を持って師とする小山内宅を訪ねます。新橋工場に移り、二十歳になって徴兵で習志野の近衛歩兵第二連隊に入隊、一九一二年に浜松工場へ異動しました。洋式鍛冶工として子分もいたそうです。
東京には一九一四年秋に上京し、大島町(当時)の東京スプリングに就職。同時に友愛会江東支部に入会。まもなく友愛会の機関誌「労働及産業」に「一労働者」と題する小説を投稿しています。鈴木文治会長渡米全国労働者大会ではスピーチしました。
友愛会本部書記に抜擢
 上京から一年もたたない一五年四月には一〇名以上で設立できる分会を寄席「羅漢亭」で大島分会として設立、七月には早くも一〇〇名で設立となる大島支部に昇格しました。同時に労働者短歌会を結成して「労働及産業」紙面を労働者短歌で賑わせました。友愛会会長の鈴木文治は「彼は面白い男だ」と評価し、本部書記に抜擢。その頃友愛会の中に、後に日本共産党の議長となる野坂参三が提唱者となる労働問題研究会がつくられ、計七も参加しています。
 しかし計七は徹底的なインテリ嫌いだったそうです。友愛会編集部員として計七は労働者むきに紙面を読みやすく楽しめるように工夫しました。その頃の友愛会本部で労働者出身は計七と松岡駒吉ぐらいでした。松岡駒吉は日本製鋼室蘭工場のストライキを指導し後に総同盟会長、社会党代議士になった人です。本部には棚橋小虎、麻生久など大学出の学士が入ってきます。
城東連合会の結成
 一九一八年野坂参三がイギリス留学に出発、計七は出版部長になりました。この年は第一次世界大戦後の不況の中で米騒動が全国で起こり労働争議が広がっていきます。
そうしたなかで大島製鋼所のストライキが起こります。(大正時代の下町労働史その5参照)一〇月には東京鉄工組合が産業別組織として結成。計七は亀戸、大島、城東、鶴東の四支部による城東連合会を結成、一二月には五の橋館で五〇〇人が参加する演説会を開催しました。
 連合会には倶楽部、図書館、弁論部、文芸部、家庭部、余興部、労働問題研究部、労働争議調停部など一三の事業部門、労働倶楽部では将棋、蓄音機、図書室があり、地域に対して「招待会」開催して職制、町長、警察署幹部などを招き、寄付金までもらったそうです。
友愛会を脱退、純労働者組合を結成
 一九年六月出版部長を辞任、背景には棚橋たちとの激しい路線論争がありました。計七はロシア革命を「生きる光明を与えたり」と評価しましたが、日本の資本主義は弱く、階級闘争よりも労使共同で労働者の地位を向上させることを中心に考えていたのです。
七月に起こった大島製鋼所の三割賃上げ(二割で妥結)、久原(のちに日立)製作所亀戸工場解雇反対闘争二一日間のスト、敗北。八月久原製作所請負工の争議を指導、最低条件で妥結。その際重役と妥協工作をしたとの責任を問われ、戦闘しつつあった友愛会関東大会で計七弾劾決議があげられました。亀戸支部の渡辺政之輔(のちに南葛労働会を結成、日本共産党の委員長)と東京鉄工組合の山本懸蔵、棚橋小虎らが同調してます。
 弾劾された計七たち城東連合会組合員約三〇〇人は二〇年一〇月二日に純労働者組合を計七宅で結成することになります。はやくも分裂を経験することになったのです。
【参考】
●「評伝平沢計七」藤田富士男、大和田茂著、一九九六年、恒文社  ●「亀戸事件‐隠された権力犯罪」、加藤文三著、一九九一年、大月書店